紅茶と言えば誰もがイギリスを思い浮かべます。しかし考えてみれば、イギリスにお茶畑はありません。当時紅茶は遠い海を渡ってイギリスに運ばれてきました。いわば富と権力の象徴として、異国の地からきた飲み物をイギリス人は味わい自国の文化にしていったのです。

宣教師が伝えた初めての紅茶
ヨーロッパの文献に最初に現れるお茶の記事はアラビアの旅行者によるもので、9世紀後半の広東の茶の収税について書かれています。1569年にはポルトガル宣教師が国王に提出した覚書の中で薬用植物によって作られた「チャ」について報告しています。おそらくヨーロッパで初めて中国や日本のお茶文化に触れたのはポルトガル人でした。他に中国へ船で布教に行っていたスペイン・イタリアのキリスト教宣教師たちもアジアのお茶文化についてヨーロッパに伝えています。
実際にヨーロッパにお茶を初めて持ち込んだのはオランダ人でした。オランダの東インド会社の商船が最初にお茶をヨーロッパに運んだのが1610年で、日本の平戸で仕入れた日本茶とマカオからの中国茶を載せていました。それがフランスに1636年、ロシアに1638年、イギリスには1650年に伝わりました。当時は文化の伝達速度が今と比べにならないほど遅く、ヨーロッパに伝えられて40年後にイギリスにお茶が伝わりました。
以前の貿易船は絹織物や香料が目的でしたが、徐々に茶をヨーロッパへ届けるようになりました。その後オランダ商人が茶貿易を取り仕切るようになっていきました。最初にイギリスにやってきた中国茶はイギリス商人が直接買い付けたものではなく、オランダ商人を通じて買ったものだったんですね。
英国貴族に飲まれていたのは中国茶
17世紀から19世紀の中ごろまで、イギリス人が飲んでいた紅茶はほとんどが中国茶でした。
ボヘア茶、ハイスン茶、スーチョン茶、ガンパウダ茶(緑茶)などが飲まれていました。上流階級の人々や貴族たちはミルクを入れず、プレーンティとして飲んでいたようです。その中でも輸入が多かったのがボヘア茶(武夷茶)で、これは今で言うウーロン茶。ウーロン茶の産地は中国福建省で、その後南部に広がり、海を渡って台湾などにも伝わっています。日本人にもなじみの深いウーロン茶を17世紀のイギリス人は飲んでいたいんですね。しかし、現在の日本のようにウーロン茶が今日まで日常的に普及することはありませんでした。17世紀以降の中国茶はスーチョン茶、アール・グレーがよく飲まれています。
17世紀には中国の茶貿易はオランダが支配していました。17世紀中ごろ、イギリスではオランダからの茶の輸入を禁止していましたが、実際は密輸でイギリスに入ってきていました。しかし1669年、イギリスの東インド会社が中国の茶を市民に勧め、イギリスによる本格的な茶輸入がようやく始まります。
コーヒーハウスとティーガーデン
17世紀のイギリスで飲まれていたのは緑茶や烏龍茶が中心でした。茶がイギリス人の間で飲まれるようになると、コーヒーハウス(いわゆる喫茶店)でも茶が提供されるようになります。コーヒーは紅茶よりも先にイギリスに伝わっていて、エキゾチックな飲み物としてとても人気がありました(街中コーヒーハウスがあったのがその証拠ですね)。しかし17世紀にできたコーヒーハウスはその名の通り主にコーヒーを提供する店で、茶のサービスはまだ少なかったそうです。また女性の入店が禁じられていたため、女性が安心して茶を楽しめる場所はまだ多くありませんでした。しかし1660年にチャールズ2世によって王政復古が始まると、生活にゆとりができイギリスのライフスタイルにも変化が生まれました。その頃ヴォークソール・ガーデンという公共の庭園がオープンし、
のちにティーガーデンと呼ばれるようになりました。そこでが老若男女が自然の散策と会話、そして茶を楽しむことができる場所で、広大な園内には並木道や川や池が設けられていました。女性も楽しめる開かれた場所でしたが、入場料が高額で、貧しい人にとっては高根の花の空間だったようです。
紅茶商人トワイニングの登場
紅茶が少しずつ普及し始めたのは18世紀の半ばになってからでした。その頃には紅茶の需要は急激に増え、その結果イギリスの東インド会社が運んでくる商品も品不足となり、オランダからの輸入がまた増えました。また紅茶販売路の増加によって、1773年にはアメリカで英国の重税政策に反対する市民がイギリス東インド会社の船に積んであった紅茶を海に投げ捨てる事件も起こり、それがアメリカ独立戦争のきっかけにもなりました。
18世紀の紅茶商で有名なのがトマス・トワイニング。世界的に有名な紅茶ブランド「トワイニング」の創業者です。当時ロンドンには十数軒のコーヒーハウスがありましたが、そのほとんどはコーヒーやお酒を主なサービスとしていました。トワイニングは1706年に紅茶を出すコーヒーハウスをロンドンに開き、ロンドンの紳士たちの大きな支持を得ました。また女性客も入れるコーヒーハウス「ゴールデンライオン」も新たに開き、女性からの人気も得たそうです。そのお店では喫茶店だけではなく紅茶の販売をおこなっていたそうです。
その後紅茶事業は息子のダニエルに引き継がれ、紅茶の需要はさらに増えていきましたが、18世紀末の孫のリチャードの代になると、高い紅茶税とオランダからの密輸により紅茶の消費量は減っていきました。
しかし19世紀に入ると、英国の紅茶の消費量は再び増えます。現在の紅茶を代表する茶葉が発見されたのです。
アール・グレイの登場
日本人にもなじみの深いアール・グレイは19世紀の初めに生まれました。ベルガモットの葉で香りづけした中国茶をベースにしたブレンド茶で、スモーキーな風味と柑橘系のさわやかな香りが特徴です。19世紀初頭、英国首相だったグレー伯が中国奥地の古老から教えられたブレンド法にならって前述のトワイニングが広めた紅茶といわれていますが、これには諸説あります。当初はベルガモットの木も中国には存在しなかったため、ウーロン茶にミカンなどの柑橘類の皮を入れて香りをつけたとも言われています。まだインド茶が発見される前のことでした。
アッサム茶の発見
19世紀にはいると、インドとセイロン(現在のスリランカ)からイギリス人の趣向に合う紅茶が大量に輸入されるようになりました。その要因の一つは、アッサム茶の発見でした。1823年インドの奥地でイギリスの軍人ロバート・ブルース少佐が英国政府の密命を受けて茶樹を探していました。ヒマラヤ山地・ブータンの国境近くにあるアッサム地方で新しいお茶を見つけました。それが世界的に有名なアッサム茶でした。くせがなく柔らかな香りと風味があるアッサム茶はミルクティにも合い、すぐにイギリス人に好まれるようになりました。その後、アッサム地方に大規模な茶畑が造られ、1875年にアッサム茶だけでイギリスの紅茶消費量を満たすまでに生産が増えました。これにより紅茶は中国産のものからインド産のものへとシフトしていきます。今の紅茶が英国に広まったのはこの頃でした。
ダージリン茶の発見
アッサム地方でのお茶栽培の成功によって、イギリスはインド北部の山地へもお茶探しをしにいくようになりました。ヒマラヤ山麓のダージリン地方でも茶畑が作られるようになりました。アッサム・ダージリンに続いて、インド茶の産地となったのがインド南部のニルギリです。1853年頃には茶畑が造られています。
セイロン茶の発見
次に新しい英国茶の産地になったのは、セイロン(現在のスリランカ)でした。もともとセイロンにはオランダ統治時代のコーヒー農場がありましたが、病害によって全滅してしまいました。その後、農園の跡地を買収して1890年に大規模な紅茶農園を作ったのがトマス・リプトンでした。農園に植樹されたのはインドのアッサム茶でしたが、セイロン独自の気温と湿度によって、アッサムとは異なった風合いのセイロンティーが作られていきました。現在の世界的なリプトン紅茶の成功は、セイロンから始まったのです。
自由貿易で紅茶輸入の競争激化
19世紀には紅茶貿易を支配していた東インド会社の独占権に制限が加えられ、1834年以降、紅茶の貿易は完全に自由になりました。
それによって紅茶の輸入量は増大しました。それ以降、アメリカとイギリスによる競争が激しくなり、両国はティー・クリッパーと呼ばれる紅茶輸送高速船によっていかに英国に紅茶を早く届けるかを争うようになります。
19世紀末になると、紅茶の消費量が急に増加します。1880年代からインドから紅茶の輸入が本格的に始まったためで、その後中国茶以上にインドのお茶が飲まれるようになります。消費量増加の背景にはインドで新しい茶葉が発見されたことが大きく関係しています。今の紅茶が本格的に広まりだしたのがこの頃です。19世紀の初め、1人あたりの紅茶の消費量は年間で680グラムでしたが、19世紀末の1880年には2.1キログラムにまで増加しました。またインドネシア、インド、スリランカではそれぞれの宗主国によってプランテーションが開発されて紅茶の一大産地となりました。そして第二次世界大戦後にはアフリカ諸国でも紅茶のプランテーションが作られていきます。
優雅な英国紅茶文化アフタヌーンティーの誕生
紅茶が普及し始めた19世紀のヴィクトリア朝時代はまさに紅茶文化が花開いた時代です。アフタヌーンティーやティーセットが人気となり、この頃になってようやく日本人がイメージする英国の紅茶文化が生まれました。
イギリスの上流階級の人々にとって、夕方は主に観劇の時間に当てられます。そのため夜遅くまで夕食が食べられずに空腹でいることが多かったようです。その空腹を紛らわせようとして考えられたのが紅茶と食事の時間「アフタヌーンティー」でした。観劇までの数時間に上流階級の女性たちが紅茶をお菓子を楽しんだのです。今の日本人がイメージする英国の優雅な紅茶文化はこのようにして生まれました。
またアフタヌーンティーの定番の食事といえばサンドイッチ。特にキュウリのサンドイッチが人気でした。日本人からすれば不思議ですが、広大な土地を所有していた貴族にとって新鮮なキュウリは富の象徴でした。自分の所有地の畑で獲れたキュウリをサンドイッチに使ってもてなすことが富の証であり、当時の貴族たちの間では流行していたのです。
また紅茶に添えられるお菓子としてなくてはならないのがスコーン。スコットランド生まれのパンで、小麦粉・牛乳・バター・ベーキングパウダーなどが入っています。特に生クリームより濃厚なクロテッドクリームはスコーンとの相性もよく、紅茶にぴったり。このクロテッドクリームを添えたスコーンを食べながら紅茶を飲む習慣をクリームティーと呼んでいます。
ティーバッグの発明
20世紀になるとライフスタイルの変化によってティーバッグが発明されました。日本でもよく使われるティバッグを発明したのはイギリス人ですが、
実際に広く普及したのは合理主義者の多いアメリカでした。アメリカで実用化が始まったのは1920年代で、アメリカ人にライフスタイルの変化に合わせて定着していきました。イギリスでは戦後の1950年代にティ・バッグが発達し、今日ではイギリスの家庭や喫茶店でもティ・バッグを使っているところは多いようです。ただし日本ではカップに直接ティ・バッグを入れますがイギリスでは必ずポットに2,3個入れてから濃い紅茶をカップに注ぎます。そのようなひと手間にイギリスの紅茶文化を感じます。
どんなに社会が発達しても、イギリス人が過すお茶の時間はなくならない。紅茶をたっぷりとポットに入れて、ゆっくりと飲む。それがイギリスの文化であり、英国人が考える豊かな時間なのでしょう。